三浦成田山の成り立ち(縁起)

熊木照門僧正の生い立ち


三浦成田山開山第一世 御前 熊木照門僧正は生まれた時から、人より際立って抜きん出た勘を持ち、その言動は周囲の人々を驚かしておりました。将来を安じた両親は知り合いの行者様の勧めで山伏の寺の歴史で名高い、京都総本山醍醐寺伝法学院へ入門させました。

ここで僧侶としてまた山伏修験者として磨きを掛け、殊に日本唯一、女人禁制の霊山、奈良県大峰山にて苦行苦難を重ね、山臥斗(さんがと)薮(そう)の中で山伏法具、法螺貝吹螺士(ほらがいすいらし)の免許皆伝となりました。《この法螺貝については後日NHK芸術祭参加に登場し、その美しい音色が人々の心に響き渡り、認められ、イギリス放送協会に録音され栄誉を得、ビクターなどNETテレビ(現在の日本テレビ)など各テレビ局よりの出場依頼を受けました》。

 

こうして遂に神々との交信の力を取得致しました。然(しか)し乍(なが)ら未だ物足らず四国遍路八十八ヶ所霊所、西国三十三観音霊場と諸国(しょこく)行脚(あんぎゃ)托鉢(たくはつ)修行(しゅぎょう)を続け、その祈りの一夜の宿を戴いた善根宿(ぜんこんやど)で不思議にも大本山成田山のご本尊不動明王様との奇しくもご法縁を戴き、これを機に大本山成田山勧学院へと入学を決意致しました。

修行中の熊木照門僧正
修行中の熊木照門僧正

三浦成田山の開山


卒業後再び自分自身の可能性を追求するべく三浦半島へ渡り、三浦横須賀と自らの浄地を見つけ、ここに本堂建立の土地を購入いたしました。土地を購入したとは言え建立する資金が有りません。先祖代々の供養を司る供養寺(一般の寺院の事)とは異なり、寄付を集める事も出来ません。かつて醍醐寺(真言宗醍醐派総本山)と成田山(真言宗智山派大本山)の二つの寺で修行し、身に付けた加持力と生まれ持った機根の力で出来る事は祈る事。

 

こうして開山第一世を目指し、出来ない事は何もない。必ずや出来る、との信念を一段と強くし、前進有るのみと本堂建設に着手致しました。すると不思議にも後から後からと応援支援の心篤き信者が続出し遂に落慶したのです。時まさに昭和五十年五月の事でした。大本山より『三浦成田山』の称号を拝領。当時の法務部長始め大本山の諸大徳からお祝いを頂戴し、ここに開山第一世となる事が出来ました。

三浦成田山開山から現在まで


やがて近郊近在は元より北海道、東北、近畿、九州地方と日本全国から信者が集まり、ここに揺るぎない信仰道場が完成致しました。漸く(ようや)一安心と言う時、平成十六年十月の十六号台風により本堂倒壊、諸堂損壊と大きな痛手を被りました。その時、又々ご本尊不動明王様のご霊告を受け、愈々堂塔伽藍整備を考え、本堂建立から始まり客殿建設、交通安全祈祷殿、総合受付、信者休憩所、古札お納め所、観音像、弘法大師像を安置し、併せて梵鐘堂を建設整備し、且つ平成三十年九月には大正三年、明治の大先達秀喜法印伝来の閃き不動を建立、現在に至っております

ここで皆様にお話したいことは、師は裸一貫で生きて来たにも拘らず、しかも今、京浜急行電鉄沿線のこの地に土地購入から始まり周囲隣地一帯を購入しながら諸堂建立、各寺院のように檀家も持たず、唯々人々の安泰と一途な幸せを祈り、神仏の御加護を願い此処まで来た事です。

 

現在誰しもが一軒の家を手に入れる事さえ容易では無い時代に、このような成果を現わせられたのは何と言っても、やはり神仏の御加護と霊感神通力、併せて師の懸命な精進の結果で有ると改めて強く感じているのです。

 

間もなく開山五十周年を迎えるに当たり、感謝と御礼の意味を込めてここに紹介させて戴きました。皆様の益々の精進努力を重ねてご祈願申し上げて参ります。

 

三浦成田山 寺務長 合掌